◆08年2月の一目
司法岡目八目/鈴木英夫の日記/2008年2月29日(金)
●国会には 裁判所法と裁判員法の
排他的二重状態を ただす義務がある
(工事中)
●矢口洪一の三判事派遣の目的は
陪審制の歴史的連続性を断ち切ることにあった
ー丸田隆『陪審裁判を考える』が教えてくれたことー
いきなり、同書の核心部分から始める。
日本にも陪審制が施行されていたことは知られている。1928
年10月1日から刑事陪審裁判が開始された。しかし、根付かな
いまま、1943年「陪審法ノ停止ニ関スル法律」が公布され、陪
審制度は中止された。しかし、同法付則第三項は「陪審ハ大東
亜戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ
以テ定ム」と規定した。1946年には「大東亜戦争終了後」が「今
次ノ戦争終了後」に改正され、陪審制復活の道を残したのであ
る。停止の理由はあくまで「戦時」という緊急事態であり、陪審
制そのものの欠陥からくるものではないので、付則が付けられ
たというのが公式の見解である。
この経過があり、占領軍もこの経過を尊重して裁判所法第三
条③「この法律の規定は、刑事について陪審の制度を設けるこ
とを妨げない。」と定めたのである。裁判所法から見ると、この
条項は「盲腸」のような印象を受けるが、歴史的経過を知れば
なぜこの条文が存在しているのか了解できるのである。
陪審制も、1947年に施行された裁判所法第三条③も、「眠っ
たまま」60年間が経過したのである。
まったく眠ったままではなかった。
1987年の国会で、社会党の小澤克介議員が「刑事陪審が
なぜ再施行されないのか」を質問し、あわせて、現代の法で
は「勅令」をどう読みかえるのかを問いただした。
法務省刑事局長は「…勅令とあるのは政令というふうに読
みかえるといういうふうに解釈できるではなかろうかと思って
います。」と答弁している。小澤議員は続いて、現在の裁判
員問題に繋がる核心的なポイントを指摘している。
小澤「そういたしますと、これは政令でございますから、国会
が関与しなくても行政府で本来ならばできることであろうかと
思うわけでございます。もちろん今停止停止されている陪審
法がそのまま即復活することは中身的にもいろんな問題が
あろうかと思いますけれども、この陪審法ノ停止ニ関スル法
律の付則三条が命じているところが全く無視されて今日に至
っているということは、これはやはり非常に奇異でもあります
し、まずいことでもありますし、しかも今お聞きしますと政令
限りで開始できるということになりますと、これは立法府では
なく行政府のサボタージュではないかと思われます。」
(『第百八国会衆議院法務委員会議事録』四号、一九八七
年五月二二日)
この小澤議員の指摘にたいする法務省の答弁はない。
当時の最高裁長官は矢口洪一であり、総理大臣は中曽
根康弘である。そして、この翌年1988年~89年に東京地裁
の三人の判事(竹崎博充・白木勇・山室恵)が米国と英国に
派遣されたのである。(続く)
●誰が「裁判員の参加する裁判」と決めるのか
ー裁判員制はファッショ検察官と
ヘナチョコ裁判官のアクセサリーに過ぎないー
刑事裁判は「いつ」開始されるのか。刑事訴訟法第二四七条
「公訴は、検察官がこれを行う。」。そして第二五六条「公訴の
提起は、起訴状を提出してこれをしなければならない。②起訴
状には、左の事項を記載しなければならない。一被告人の氏
名その他被告人を特定するに足りる事実 二公訴事実 三罪
名」「⑤起訴状には、裁判官に事件につき予断を生じせしめる
虞のある書類その他の物を添付し、又はその内容を引用して
はならない。」
裁判はこの公訴の提起によってスタートする。⑤は「起訴状
一本主義」という原則であり、裁判の公正を維持する基本原
則である。裁判官は真っ白な状態で、唯一、検察官の起訴状
だけから裁判を始めるのである。
ひとが死んだ、という事実があっても、それが刑法第一九九
条にあたる殺人なのか、自殺によるものか、自殺でも自殺教
唆なのか、嘱託殺人(同意殺人)なのか、第二○五条の傷害
致死なのか、第二一○条の過失致死なのか、第二一一条業
務上過失致死なのか、検察官が起訴状で指摘したことは、裁
判で立証されることによって確定されていき、検察官の適用罪
名が至当であるか否か、も裁判で決められる。
裁判員法第二条は、「一死刑又は無期の懲役又は禁固に
当たる罪に係わる事件 二裁判所法第二十六条第二号に掲
げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させ
た罪に係わるもの(前号に該当するものを除く。)」
これほどひどい司法ファッショがあるだろうか。
死刑にあたる罪が裁判を行うまえに存在することはあり得
ない。われわれはこう考えなければならない。裁判で争われ
ている事件は、検察官の頭脳の中にある幻想にすぎない、
と。検察官の幻想だからこそ、検察官はそれが幻想ではなく
事実に基づいていることを立証し、被告人と弁護人はその立
証が至当であるか否かを反証反撃するのであり、裁判官は
この攻防に中立の立場を堅持して、最終的な判決を下すの
である。
裁判員法は、この刑事裁判の原則を逸脱して、予断も予
断、予め判決された立場に立って、裁判員を参加させると
いう裁判の原則を踏みにじったとんでもない悪法である。
二項の「故意」は、誰が判断したのか。検察官が「故意」
と判断したのであり、裁判が開始されていない段階では、
それは「検察官の幻想」に過ぎないのである。
公訴権が検察官(国家)に独占されている条件下では
裁判員制度は司法ファシズムの飾り物でしかない。
陪審制や参審制を成立させるには、「推定無罪」の原則
が市民社会に根付いていることが必要条件なのである。
(最高裁に推定無罪の原則がないことは別途論じる)
●「国民の司法参加」という甘言は
矢口洪一が1996年に言い出したのである
いまでは猫も杓子も使っている「国民の司法参加」という用語、
誰が使い始めたかご存知だろうか。
1996年12月23日の毎日新聞朝刊「ワイド・オピニオン」で矢口
洪一が使ったのが始まりである。1990年に定年退官した矢口は
「矢口の司法制度改革」を準備するため、潜伏して各方面に謀
略を仕掛けていた。この毎日新聞のインタビュー記事は、矢口
戦略の公表といっていい。改革の戦略を総括的に展開している。
(このわたくしの説に疑問をもたれたら、是非とも反証となるもの
をご教示いただければありがたい)
もちろん、国民の司法参加、という言葉は固有名詞ではなく、
やさしい普通名詞でできているので、この用語が矢口オリエン
テッドある、と主張するわけではない。司法における国民参加
の先行具体事例として、調停委員、検察審査会、最高裁裁判
官国民審査制度などに触れた論文なら、みな、国民の司法参
加制度という視点から、この用語を使っている。
矢口が初めてである、というのは、司法制度改革という具体
的な戦略を構想し、その改革の柱のひとつとして陪審制を位
置づけたのは矢口が初めてである、というのがわたくしの指摘
である。
もともと「国民の司法参加」というキャッチフレーズは、陪審
制導入論のためのものであったが、矢口が使い、司法制度審
議会が使うことによってオーソライズされ、司法制度改革全体
を国民にアッピールするスローガンに底上げされてしまった。
本来は、苦い議論をしなければならない「司法の現実」に目
をそらせ、まるでファッション評論のような司法にふさわしくな
い「遊び」へと問題関心を横すべりさせ、矢口の謀略としての
「矢口司法制度改革」を隠蔽したのが、この「国民の司法参加」
というシュガーコートなのである。
日本の憲法は国民に司法権を与えていない
これが司法制度改革論議の始点でなければならないのである。
その意味で「国民の司法参加」という用語は犯罪的な役割を果
たしているといえよう。
●裁判員制度は 「兵役」か 「選挙権」か
裁判員(補充員も)を選ぶスタートは、地方自治体が選挙人
名簿から「籤引き」をするところから始まる。これを見ると、裁判
員になるのは、「何か特別な代表」を選ぶための選挙権のよう
なものを連想させる。選挙なら「棄権」というのがあるが、裁判
員に当選すると「棄権」はなく、出頭しないと罰金を取られる。こ
れは義務である。義務にはその裏側に権利が担保されている。
憲法で子どもに義務教育を受けさせるのは親の義務である。
この義務を担保するために、義務教育は無償にすると憲法は
定めている。
罰金を取るほどの重い義務を課して、権利の担保はない。こ
のような義務は「兵役」くらいしかない。徴兵制のある国では、
兵役に服さない国民は「公民」としての資格を与えない。軍事
情勢に厳しい国では、兵役を忌避したら刑事罰を課せられ
る。日本では憲法九条のおかげで、兵役の義務はない。
ところが、裁判員制度は「兵役のようなもの」として現在、国
民の前に突きつけられている。これは、裁判員制度推進派が
強力で自信満々だからではない。逆に、推進派は小心で卑怯
で自信がないから、「兵役のようなもの」として国民に押し付け
ているのである。
国民国家の存立基礎は、国民は「正義を愛する」ものとして
その市民像が想定されている。国民はみな「悪が好きだ」とい
うのがタテマエならば、国家など成立しないだろう。
裁判員も「選挙権」のように制度化すれば成功しただろう。
「あなたは裁判員になれます。裁判所に出頭して裁判員にな
れる登録をしてください。」ソンナノ、関係ネェー、オパッピー!
と考えるひとは棄権すればいいのである。
そうすると、裁判員になるひとがいなくなるのではないか、と
心配するのは、悪党かニヒリストだけである。
国民に選挙権のように裁判員の権利を行使してもらうには、
司法が国民から信頼されていなければならないし、国民も人
権や平和を守るために、司法を立派なものにしていかなけれ
ばならない、とポジティブシンキングの循環が形成される。
しかし、現実はこの主張は皮肉の域を出ないだろう。
裁判員制度は「不純な動機」から導入が画策されたのであ
る。失敗するのは火を見るより明らかである。
●裁判員の氏名を公開しない裁判は
秘密裁判であり 憲法が保障する
裁判の公開原則に反する違憲裁判である
裁判員は「暗殺者」となる
裁判員法第七二条は裁判員等の保護策を定めている。
「何人も、裁判員、補充裁判員又は裁判員候補者若しくはその
予定者の氏名、住所その他の個人を特定するに足る情報を公
にしてはならない。これらであった者の氏名、住所その他の個
人を特定するに足りる情報についても、本人がこれを公にする
ことに同意している場合を除き、同様とする。」
この規定により、「裁判員の参加する裁判」は秘密暗黒裁判
となるに違いないだろう。
憲法第八二条は裁判の公開について「裁判の対審及び判決
は、公開の法廷でこれを行ふ。」と規定している。
また、第三七条は刑事被告人の諸権利として「すべて刑事事
件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を
受ける権利を有する。」と規定している。
裁判員法はこれら裁判の公開規定に反する違憲立法である。
裁判員の住所・氏名を公にしてはならない、というのだから、裁
判員の参加する裁判では、裁判官の氏名は公開されても、裁
判員の氏名は公開されないことが前提になっている、と判断せ
ざるを得ない。裁判員の氏名を公開しないことは、裁判の公開
性を損なうことにならないのだろうか。裁判員制度導入論者た
ちは損なわない、だから違憲にならない、と考えているようであ
る。これは、狂気の考えである。
ひとと、ひとがコミュニケーションを交わす場合、まず自分は
何者であるかを相手に告げることからすべては始る。これを行
わない場合は、昔の武士階級では「切り捨ててもよい」のであ
る。
裁判員になって裁判に参加することは「正義を実現すること」
に他ならない。市民として(公民として)誇らしいことなのである。
欧米では、市民がこの公民意識を獲得し定着させ、民主主義
に不可欠な制度だと誇りに思うようになるには、何百年という
時間を必要とした。
大正期に導入された「陪審制」は「制限陪審制」であり、「天
皇の名による裁判」に無理矢理付属させたものでしかなかっ
た。もともと、陪審制は国王専制を掣肘するための制度なので
あり、天皇制と陪審制は水と油のような関係なのであった。
主権在民となった戦後、わが国は「専門職としての裁判官」
による裁判制度を選択し、実行してきたのである。この制度を
いきなり、裁判員を参加させる制度に変える必然性はあるの
だろうか。
●木に竹は接げない
裁判員は国と雇用契約を結んで、裁判員としての役務を
提供し、対価として日当上限1万円が支給される。この契約
は国家公務員法に違反する不正なものである。
裁判員は雇用する国の相手方が誰なのか不明である。
日当、旅費、宿泊料など支給するのは最高裁である。しかし
最高裁が、裁判員を選任の主体であるという規定はない。
最高裁が支給できるのは「裁判官」と裁判所法で定めら
れた「裁判官以外の裁判所の職員」で、この職は裁判所法
で定められている。最高裁事務総長、秘書官、司法研修所
教官、裁判所総合研修所教官、図書館長、高裁長官秘書
官、調査官、事務官、書記官、速記官、技官、家裁調査官
家裁調査官補、執行官、廷吏などが法定されている。
裁判員は、裁判官ではなく、裁判官以外の裁判所職員で
もないのである。
もちろん、裁判員は一般職国家公務員ではない。
最高裁が、法律的に根拠のない裁判員に日当等を支給
することは違法行為になる。
現行法の体系では、裁判員に法的根拠を与えるとしたら
裁判官に準ずる身分としなければならないだろう。そうする
と、選任から報酬、懲戒処分に至るまで、裁判官に準ずる
ものに整合させなければならない。この作業は5年などの
短期間でできるものである。矢口洪一が『最高裁判所とと
もに』で、そのためには十年、二十年は必要と吐露してい
るのは真実である。矢口洪一たち裁判員制度導入派は策
略を弄することによって、この必要時間をショートカットした
が、この拙速が裁判員制度を導入前に破産させようとして
いるのである。
●「裁判員」は国家公務員法違反である
国家公務員法第二条⑥は「政府は、一般職又は特別職以
外の勤務者を置いてその勤務者に対し俸給、給料その他の
給与を支払ってはならない。」と定めている。裁判員はこの条
文で指示している、一般職、特別職以外の勤務者そのもの
である。
裁判員は、国と「契約」を結んで裁判員法に定められた勤
務に従事する身分といえる。しかし、一般職の特別国家公
務員ではなく、特別職の公務員でもない。身分が規定されて
いないのである。裁判員法は実にデタラメな法律なのである。
裁判員法第一三条は「裁判員は、衆議院議員の選挙権を有
する者の中から、この節の定めるところにより、選任するも
のとする。」と規定されているが、通常、選任する主体、誰が
何の組織が選任するのか、が明記されている。ところが、裁
判員法には、誰が、どの組織が選任するのか、が規定され
ていないのである。
実は、選任の主体を明記すると、裁判員法というインチキ
法の正体が暴露されてしまうから明記できないのである。
諸外国の陪審員、参審員の身分がどうなっているのか、わ
たくしは不勉強で明らかにできないが、ドイツでは参審員の
ことを「名誉裁判官」と呼んでいるそうなので、参審員は「裁
判官をサポートする裁判官」と認識されていることが推定で
きよう。英米の陪審員は、裁判官を排除して、市民だけの評
議で処分を決定する仕組みであり、身分としては市民のま
までいいわけである。
参審員の場合は「裁判官に準ずる」身分として処遇される
と考えられるのである。
裁判員という呼称は、「裁判官」でもない「市民」でもない
という国民を騙すための作意である、と判断すべきではない
だろうか。
いずれにせよ、裁判員は国家公務員ではない、という明
確な事実であり、公務員でない者に、政府は「報酬」は支払
えない、という事実である。
では、裁判員の身分は何なのか。裁判員の身分を規定す
る法律はないのであり、この点で裁判員は「幽霊」なのであ
る。ところが、裁判員法第一一条は「裁判員及び補充裁判
員には、最高裁判所規則で定めるところにより、旅費、日
当及び宿泊料を支給する。」と定めているが、この規定は
明らかに国家公務員法に違反しているのである。
政府は支給できないが、最高裁判所は支給できる、とい
うのは詭弁である。最高裁判所が支給する原資は国民の
税金であり、政府の予算から供給されているのである。
最高裁判所が支給するのであれば、裁判員として選任す
る主体は最高裁判所だと第一三条で明文化すべきなので
ある。ところが、裁判員法は、選任がまるでシステムの自動
的な働きによって行われ、選任の主体が不在であるような
欺瞞を装ったのである。
●「選任」された裁判員を
裁判所が直接刑事罰を加えることはできない
裁判員法はまったくデタラメな作文である
「裁判員になる」ということは、どういうことなのだろうか。
まず最低の普遍的な資格として、選挙権をもっていること。
次に、裁判所が裁判員候補者に当てたこと。籤引きに当た
ったのである。博打と同じである。そして、裁判員法に定め
る適格条項をクリアすれば裁判員に「選任」される。
注目すべきことは、裁判員は裁判所に「任命」されてなる
ものではなく、籤引きで「選任」される、という点である。
裁判員になるのが嫌なら十万円を払って呼び出しに応じ
なければそれですむ。これは、破廉恥なことではないので、
交通違反の罰金を払うようなものだから、きっと流行するに
違いないだろう。
裁判員が、「任命」された官職であるか、「選任」された官
職であるかの違いは、裁判員制度問題の核心なのである。
任命の官職とすると、任命する主体がいなければ任命する
ことができない。そして、任命主体には「任命責任」が生起
する。裁判員が秘密を漏洩したら、任命主体がその責任に
おいて処分する。公務員制度を維持している、最低の原則
である。国家公務員法第一○○条には、公務員は公務員
である時期はもちろん、公務員を辞めても、職務上知り得
た秘密を漏洩してはならない、と定められており、これに違
反同法第一○九条で、一年以下の懲役又は三万円以下の
罰金に処せられることになる。(続く)
この刑事罰のことから、裁判員法がいかにデタラメな法律
であるかが暴露されるのである。
●実施されたら 裁判員制度は
国民にとって もっとも重い義務になる
裁判員制度を、教育・勤労・納税の国民の三大義務と比べ
てみると、裁判員制度が質的に次元を異にするような、もっ
とも重い義務になるのである。
抽象的な次元で考えると、三大義務はいずれも自分自身に
関わる問題で、この義務が影響する範囲は、自分自身と最
大でも家族・親族の関係の範囲以内である。
ところが、裁判員制度は、国民が「他者の運命に関与する」
ことであり、他人の自由・生命・生活・身体・財産などを左右
する決定に「参加する」ことに他ならない。
その意味で裁判員制度は、日本の国民にまったく新しい義
務を課す制度なのである。
「国民(市民)の裁判参加制度」は、欧米では何百年の歴史
的実績の上に行われている制度である。コソ泥のように立
法化した日本の裁判員制度とはわけが違う。
国民の裁判参加制度は、選挙制度と密接に関連している。
欧米では永い間、陪審員・参審員になれるのは、男性で一
定の納税額以上の者に制限されていた「制限選挙権」時代
が続き、選挙権が性別・人種・身分や納税額の違いなどに
拘わらず、すべての国民に平等に与えられたのは、第二次
世界大戦以後のことであり、付随して、陪審員や参審員が
普通選挙権と同じく普遍的に与えられたのも戦後のことな
のである。
もちろん、日本で大正期に行われた陪審制は「制限陪審制」
であって、これを裁判員制度の先駆として論ずるのはまった
く愚かなことである。
裁判員制度の「義務の実体」を見てみると、
①国民は裁判員になる義務がある
②裁判員には守秘義務がある
この二つに集約することができるだろう。
そして、この裁判員制度の義務と三大義務と比べると、裁判
員の実体的義務は、違反すると違反者には「刑事罰」が課せ
られるということが最大の相違点なのである。三大義務に違
反したとしても、刑事罰が課せられる事態になるには、かなり
長い経過をたどることになるが、裁判員制度の義務違反は
ストレートで即時的である。しかし、これはあくまで法律の文言
上のことで、裁判員法は典型的なザル法である。
「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」第八三条は
裁判員候補者が裁判所に出頭しないときは、十万円以下
の過料に処せられることを定めている。これを決定するの
は裁判所である。
この規定がザルになることは明らかである。
十万円払えば、合法的に裁判員にならなくていいのであ
る。税金と考えれば安いものである。もし、現状で実施さ
れれば、十万円払って忌避するひとたちは、ワンサカでる
ことが容易に予測できる。
おまけに、この裁判所の処分については第八四条の規
定で、「即時抗告」ができるので、おお威張りで、裁判官
に罵詈讒謗を浴びせる特権を手にすることができるので
ある。裁判所はその機能を麻痺するだろう (続く)
●裁判員制度を“国民の義務”の視点で捉える
中学校「公民」の教科書には、「国民の三大義務」として、
①教育を受けさせる義務
②勤労の義務
③納税の義務
が掲げられている。では、新しい制度として導入される「司法
参加の義務」(=裁判員になる義務)はどうなのか。
これまで、裁判員制度については「国民の司法参加」という
視点からのみ論じられて来ていると思うのだ。義務として議
論してこんかったのではないだろうか。この義務として裁判員
制度を制度を議論してきなかったのは、制度導入派の作意
だと判断すべきである。
導入派にとって、国民の義務として議論すると大きなマイナ
スになるからである。
裁判員制度を新しい国民の義務として議論すると、裁判員
制度が「憲法問題」として浮び上がらざるを得なくなる。国民
の義務論になれば、反射的に「国民の三大義務」が問題とな
り、裁判員制度は三大義務に新たに追加されて「国民の四大
義務」となる。そして、三大義務がすべて憲法第二六条、第二
七条、第三○条という憲法に根拠を持っている義務であるの
に対して、裁判員制度(国民の司法参加)には、憲法上の根
拠が無いことが明らかになり、「裁判員問題」は「憲法問題」に
なってしまうからである。
三大義務についての憲法の定めを見れば、裁判員制度も
憲法に明文化されなければならないことは、国民の誰もが考
えることである。
すなわち、裁判員制度を導入するには、司法権(その一部)
を国民に与える(帰属させる)という憲法改正が前提条件とし
て絶対に必要なのである。(続く)
