◆08年4月の一目
司法岡目八目/鈴木英夫の日記/2008年4月30日(水)
●朝日新聞・毎日新聞を名誉毀損罪容疑で告訴
マスコミは最高裁の走狗になっている
●最高裁の犯罪は、司法の土台(正義や道徳)を
破壊し尽くしてしまった 再生には時間がかかる
最高裁犯罪の主犯・矢口洪一は、この犯罪の規模、引き起
こす影響の大きさ、償いきれない罪の重さに戦慄し、自殺し
てしまった。当然の選択といえるのではないか。
与える被害は、法で裁けるような“見た目でわかる”次元の
問題にとどまらない。道徳・倫理・学問などの抽象的な次元
にまで及ぶ。そして、これらの抽象的な分野では、“冷酒と親
の意見は後から利いてくる”から、事件が終結しても、長いこ
と、事件の影響は続くだろう。
矢口洪一が山口繁に“詐称を誘い”山口繁がその誘惑に
乗ったのは、“絶対にばれない”という確信があったからであ
ろう。最高裁は大理石で囲まれている。チョットやソットの爆
弾などでは破壊されない。この最高裁の“見た目の鉄壁さ”
と、支配システムとしての最高裁を防衛する“目に見えない
内的鉄壁さ”に囲まれた最高裁裁判官たちが、完全犯罪を
目論んだのはとてもよく理解できる。
裁判官たちは、世間知らずの“偏差値優等生のウスラバ
カ坊ちゃま”たちだから、デキの悪い中学生レベルの知恵し
か働かない。バカ中学生は幼稚な犯罪計画しか考えつかな
い。頼みは大理石とシステムである。
しかし、大理石も鉄壁のシステムも、その中の住民自身を
不死身にはしてくれない。やがて、大理石の中の住民の犯
罪からウジが湧き、住民の柔らかな肉体を腐敗させていく。
大理石と鉄壁のシステムで密閉されていればいるほど、そ
れが開け放たれるとき、汚物の山と悪臭が溢れ出る。
と、まあ。こんなイメージを連想しておいてはどうだろう。
真実とは、わたくしたちの“外部”に存在するものではなく
わたくしたちの内部で、頭脳の前頭葉で作られる“幻想”な
のである。
●まず なによりも先に 山口繁学歴詐称事件は
個人犯罪ではなく 最高裁の組織犯罪である
ことを確認しよう
そして二番目に、他の省庁の汚職のように、ミ
スや怠慢から生じたものではなく、綿密な計画
に基づく、長期にわたる確信的犯罪行為である
ことを確認 しよう。
山口繁が個人で学歴詐称をしようとしてもそれは不可能で
ある。民間企業の人間なら、難易の差はあうが詐称すること
は可能である。公務員はそうはいかない。個人情報は公務
所が掌握し管理している。学歴情報は個人情報としてはそ
の重要性は高く、雇用している職員の最終学歴が個人情報
として登録・管理されていないはずはない。
具体的には、裁判官の最終学歴を含む個人情報は最高
裁事務総局が掌握し管理している。外部から名簿作成など
のために、個人情報が請求される場合も最高裁事務総局
が一括して窓口となる。
読売年鑑分野別人名録の場合も、裁判官の個人情報は
一括して最高裁事務総局から提出されている。このことは、
山口繁詐称疑惑を突き止めた2002年11月にわたくしが年
鑑編集部に問い合わせて確かめたことである。
では、詐称は最高裁事務総局の裁量で行われたのだろ
うか。そんなことは考えられない。いくら、最高裁事務総局が
権力を濫用していたとしても、裁判官の学歴を、しかも、将
来、必ず最高裁入りするだろう裁判官の学歴を詐称させる
ような重大なことを独断で行うことはあり得ないだろう。そこ
に最高裁長官の同意がなければならない。
山口繁の学歴詐称は当時の長官であった矢口洪一が計
画し、具体的な実行を最高裁事務総局が矢口の指示によ
って行ったと考えるべきである。
裁判官も人の子である。児童買春もすれば収賄もする。
しかし、山口繁事件が他の犯罪と決定的に異なるのは、個
人としての犯罪ではなくて、裁判官としての犯罪であること
である。裁判官という「身分」がなければ成立しない「身分
犯」であるということである。
●京都大学に“良心”はあるのか?
京都大学法学部は1986年1月1日から現在まで23年間にわ
たって山口繁長官職略奪事件に共犯者として関与し続けてい
る。大学学部が、組織としてこれほど長期にわたって、国事犯
罪の共犯者でいることは稀有のことである。
京大法学部が、いきなり大きな犯罪に関与したわけではな
い。最初は「絶対にバレルことなどない」という確信に基づい
て、極く軽い気持ちで学歴詐称を容認してしまったのであろう。
山口繁の学歴詐称という行為を実行することには、ほとんど
目に見えて「これが詐称行為だ」と識別できるようなことはな
かったのであるから、詐称に加担することが犯罪である、と
いうプレッシャーは感じなかったであろう。
具体的には、最高裁事務総局のメンバーを紹介する機会
が生じ、しかも、それに最終学歴の紹介が必要である、とい
う場合に限って詐称行為が発生するだけである。
1986年から詐称を開始して、大々的に学歴を「公表」しな
ければならなかったのは2000年6月の国民審査が「最初に
して最後」だったのではないだろうか。
最高裁裁判官の学歴など何の価値もない「価値の無い
情報」という無関心のカベに守られて、山口繁の学歴詐称
は成立した。だから、1986年から2000年までの14年間は、
京都大学関係者でも山口繁が「京大法」卒を詐称していた
という認識を持っていたのはほとんどいなかったのではない
だろうか。
認識が無いのだから、“良心の痛み”など感じるはずはな
い。問題は、2002年11月14日に届いたわたくしからの、山
口繁という卒業生の存否を問い合わせる書状から始まる。
最終的には、京都大学関係者の“良心”の問題に収斂して
いく問題になるが、それ以前に、最高裁判所、京都大とい
う公務所の「危機管理能力」の問題なのである。
危機管理に関する無能振り、と考えれば、山口繁長官
職略奪事件は、社会保険庁、厚生労働省、防衛省、国土
交通省、文部科学省などの汚職・スキャンダルと根は同じ
であることと理解できる。ただし、最高裁の汚職は、日常
茶飯事として伝えられる官僚たちの汚職と、同日に扱うこ
とはできないが。
●心ある法学者は 司法改革には
近づかない
司法制度改革審議会の会長を務めた当時京都大学教授
の佐藤幸治は憲法学者である。佐藤の場合の「媚びの売り
方」は、“変節”という、学者としては最低の唾棄すべきもので
あった。
佐藤の著作『憲法』は権威あるものだった。1990年に『第二
版』が刊行された。ここで、佐藤は従来の自説を曲げて「集団
的自衛権」を容認する説へと変えた。学者が自説を構築する
には永い年月を必要とするが、権力に擦り寄るために貞操を
売り渡すには時間は要らない。瞬時で変節できる。
この功績(?)が認められて、佐藤は1996年に発足した行
政改革会議のメンバーに抜擢された。(橋本竜太郎内閣)
この行革会議には、当時東北大学教授の藤田宙靖(現在、
最高裁判事・行政法専攻)もいた。
司法審には三人の学者が委員として参加していた。佐藤幸
治、駿河台大学学長、民事訴訟法専攻の竹下守夫と東大教
授の井上正仁である。井上は法務省御用達のチンピラ三流
学者で、通信傍受法の成立に暗躍した、という前科をもった
ワケありの人物である。
司法改革が国民の裁判参加という中心課題を審議するの
であれば、しっかりとした刑事法学の権威者を委員に据えな
ければならなかったのである。ところが、刑事法学からはチ
ンピラの井上しか参加せず、助言した者も、現役を退いた
リタイア組しか関わってこなかった。
審議メンバーから見ても、裁判員制度がいかにイカサマで
でっちあげられた代物でるかは明らかである。
裁判員制度に関して、これを「推進する」立場からの刊行
物は、最高裁御用達の無名の執筆者によるヤラセ出版物
だけである。刑事法学において、名のある権威者による裁
判員制度に関する著作はゼロである。
「君子危うきに近寄らず」なのである。心ある法学者たちは
司法審の立ち上がりの時点では、熱心に議論を展開してい
た。しかし、2001年12月に司法審の「論点整理」が公表され
ると、熱は急速に冷めてしまった。すなわち、矢口洪一の意
図が露骨に前面に押し出されてきたのである。
矢口の意図が成功したことになるが、それは、司法改革
から国民を乖離させることでもあった。矢口謀略は一見成
功したかに見えたが、中枢において失敗したのである。
矢口洪一が自殺したのも必然である。
●司法試験合格者数は、東大・早大・慶大・
京大・中大の順
最高裁判事の数はこれを反映していない
早大卒の最高裁判事はたった一人。それも、50年前の19
58年に任命された高木常七だけである。慶大卒はゼロ。最
高裁のイスは、東大・京大とほんのちょっぴり中大とその他
の国立私立であり、三大学が独占しているのが実態といっ
てよい。
司法試験合格者の数は「実力」を反映している、と考えてい
いだろう。だから、もし最高裁の裁判官の任命に人物の「実
力」が評価されるとすれば、司法試験の合格者数と最高裁
判事の数になんらかの相関性が現れるのが当然なのでは
ないだろうか。慶大がゼロなのは、法学部の歴史が若いこと
も作用している。しかし、早大は中大と並んで、法学部は戦
前からの歴史を持ち、弁護士の数ではトップではないか。
司法修習から法曹三者への進路選択の過程で、早大卒
は在野法曹へとシフトさせるのではないか。いずれにせよ、
裁判官の世界は東大・京大の天下である。
京大の「性格」を規定するのは、裁判官という自己閉鎖的
世界で、圧倒的な支配力を持つ東大閥に従うナンバーツー
という宿命的な立場である。
ナンバーワンの東大は、存在そのものが力であり、自立し
ている。その力は司法だけに限らず、東大卒ネットワークと
して隠然と日本の国家と社会を覆っている。
司法の世界で、京大がナンバーツーの位置を維持するに
は、東大と異なるパフォーマンスを演じなければならない。こ
のパフォーマンスが「権力に媚を売る」ということである。
医学を含む自然科学系や理工系は、権力に媚を売る、と
いうことは基本的にありえない。しかし、人文社会科学系で
は大いにあり得るのである。法学部が山口繁事件に共犯
者として加担したのも、政府に「媚を売る」というパフォーマ
ンスとして捉えれば理解し易いのである。
●矢口洪一と京都大学の共通利益
-国賊たちによる盗品山分けの実態
1947年のスタート時から現在までに任命されてきた最高裁判
事は148名である。これを「矢口以前」と「矢口以後」に分けると
興味深い数字が示される。
矢口自身は148名中89番目に任命された最高裁判事であり、
かれは「矢口以前」に分類すべきだろう。永らく最高裁事務総
局を仕切っていた矢口なので、いつからを「矢口効果」が現れ
た時期とみるかは難しい。ザックリと、矢口以後に初めて京大
卒の最高裁判事からを「矢口以後」とする。すると99番目の学
者枠で判事になった園部逸夫がそれに該当する。この人物は
退官後、外務省の顧問(?)を務め、外務省と鈴木宗男議員の
関係に関する調査委員会のキャップとして、その関係を「社会
通念に照らしてあってはならない異常なこと」と、およそ司法官
出身らしからぬ三流文学者も逃げ出すような幼稚な駄文を答
申したアホな奴である。それをまた、バカ外務大臣・川口順子
が得意然とひけらかしたのだから嫌になる。
司法官出に課せられたのは、外務省と鈴木議員との関係が
法に抵触するのか、しないのか、抵触するとしたら何と言う法
律なのか、国は、外務省や鈴木議員を告発すべきなのか、否
か、これを答申しなければ調査の目的は果たされない。園部逸
夫の悪口はこれくらいでやめておこう。
園部を境にすると、「矢口以前」の判事が98名、園部を含め
て「矢口以後」が50名になる。
「矢口以前」98名中で「京大法」卒は9名であり、そのシェアは
9.2%である。
「矢口以後」50名中の「京大法」卒は16名で、シェアは32.0%
である。
京大は矢口以後、最高裁判事のイスのシェアを3倍も増大さ
せたことになる。矢口は、かれ自身の犯罪を成功させるため
の必要不可欠な手段として京都大学を利用し、京大は東大と
の「距離」を縮めるための「京大ブランド拡販」の手段として、
相互に利用し合ったのである。
ちなみに、時間軸を補足すると、園部逸夫が最高裁判事に
任官したのが1989年9月なので、1947年から63年間の最高裁
の歴史は、「矢口以前」が42年間、「矢口以後」が21年間、と
いうことになる。もちろん、これは「矢口効果」が最高裁判事の
イスの数として現れたのを評価したのであって、矢口効果がも
っている隠然たる効果に関してはまったく考慮していない。
2005年の総選挙で、小泉純一郎が多数の「小泉チルドレン」
を生み出したように、国家権力の中枢においても、イカサマの
方法で力を作り出せるのであり、山口繁の長官職略奪という
「静かな内乱」も、アリなのである。(つづく)
●京都大学のオンリーワン-西田幾多郎の哲学
湯川秀樹の理論物理学、今西錦司の霊長類学
-人文社会系は 権力に阿る曲学にすぎない
京都大学法学部は組織をあげて、山口繁長官職略奪事件と
司法制度改革の謀略に加担してきた。
京大法学部のゴッドファーザーとして君臨していた矢口洪一
からの依頼によるものだが、決して一方的な加担ではなく、京
大にとってもメリットのある共犯だったのである(もちろん、こ
のメリットは矢口謀略が完全犯罪として成就することを前提に
しての話になるが)
高級官僚と司法の世界では、東大法卒が圧倒的なシェアを
占めている。宮沢喜一は首相在任中、高級官僚に占める東
大のシェアを50%以下に抑える提言を行っている。この宮沢
が、歴代首相の中で、人物評価に際して、もっとも学歴にこだ
わり、それも東大法卒にこだわったそうなのだから、日本のエ
スタブリッシュメントの学歴病は重症だというべきだろう。
高級官僚と司法の世界では、京大法はナンバーツーである。
京大法としては、ナンバーワンの東大との距離を1センチでも
縮めたい、というのが悲願だろう。矢口洪一は母校に悲願実
現を約束し、共犯を依頼したのである。かれらの約束の担保
は「絶対にバレない」というメフィストヘレスの囁きであった。
国立大学が学部をあげて国事犯罪に加担するなんて、前代
未聞のことである。アクセルとブレーキはバランスが保たれて
いなければならない。京大法学部はブレーキのない自動車で
あり、走る狂気の凶器と化したのである。(つづく)
●京都大学の品格・山口繁学歴詐称という犯罪は
矢口洪一が京大出身であることが絶対必要条件
だった 東大卒であれば成立しなかっただろう
日大専門学校卒業の裁判官・山口繁に京大法卒と詐称さ
せて、長官職を略奪しようと計画をたて、実行したのは第11
代長官・矢口洪一である。
なぜ、京都大学法学部を詐称させたのか。理由は単純で
ある。矢口が京大法卒だかである。では、もし矢口が東大
卒だったら山口繁に東大法卒を詐称させただろうか。それ
は、絶対にない。もし、矢口が東大卒だったら、学歴を詐称
させて「傀儡長官」を仕立てる、というアイデア自身が生れ
てこないからである。
詐称する、という犯罪は刑法で定められてはいない。詐
称単独では犯罪にならない。それは、詐欺とか恐喝など、
他の主となる犯罪に随伴してはじめて有意義なものとなる。
山口繁事件の場合は、学歴詐称が主目的ではない。最
高裁長官という地位と権力を不正に略奪しよう、というのが
主目的である。
山口繁は、1997年3月に最高裁判事に任官し、6ヶ月後
の10月に任官し、2002年11月に退官した。司法制度改革
の時期と山口繁の任期はピタリと一致する。
なぜ、東京大学卒だったら詐称のアイデアなど思い付か
ないといえるのか。
詐称するとは、詐称の対象を「私物化する」「私物のよう
に取り扱う」「取り扱える」という意識がないとできるもので
はない。
矢口は山口繁に詐称させるとき、最高裁と京都大学を
「私物」のように捉えていたのである。だから詐称させるこ
とが可能だったのである。
最高裁と京都大学を「私物」と意識できるのは、世界中
で矢口洪一ひとりしかいない。
矢口にとって、最高裁に対しては私物の意識をもてるが、
東大を私物と捉えることはまず無理である。
司法の世界では、東大はナンバーワンであり、京大は
ナンバーツーである。そして、このワンとツーの差は絶対
的に乗り越えられない格差がる。(つづく)
●裁判員制度を“徴兵制”ととらえると
この制度は物凄く“不公平”だというべきである
裁判員法第十五条には裁判員になれない「就職禁止事由」
が、第十六条には「辞退事由」が定められている。その内容を
検討する前に、基本的なことを考えてみたい。
裁判員法では裁判員にならないことを、「禁止」したり「辞退」
したりすることとして表現しているが、法令がそんな定めを明
文化するのは誤りである。これは、裁判員になることを義務と
考えるのか「参加」と考えるのか、という問題に帰着する。
裁判員制度のインチキ性は、導入を策する悪党共は、一貫
して裁判員制度を「国民の義務」であることはおくびにもださ
なかった。しかし、国民からすると、裁判員になることは「社会
正義を実現する国民の役目だ」と信じる極く少数派の人々を
除けば、多くの国民は義務として捉え、「嫌々ながら裁判員に
させられる」と考えているのである。
最高裁の調査で、三分の一が裁判員になりたくない、と回答
して状況で実施を強行すれば、失敗するのは必定である。法
務省が来年5月21日からの施行を決めたそうだが、これは、
国会解散によって公然化せざるを得ない「最高裁の犯罪」に
よる司法の崩壊を意識しての茶番にすぎない。
司法の悪党共は、自分たちの義務を免除して、裁判員制度の
埒外に身を置き、高見の見物を決め込もうとしてきたが、それ
は許されることではない。
とうとう、ペテン師・小泉純一郎が国会解散を口にした。これ
で真っ直ぐに解散・総選挙へ向かうだろう。さすれば、裁判員
制度は、春の夜の夢のように儚く消えてしまうのである。
●もし裁判員制度が訴訟になれば
「国民の義務」か「任意の参加」かが
最終的な争点になるだろう
もちろん「義務論」はあらかじめ敗北している。司法審では「司
法への国民参加」という視点からしか議論されていない。「司法
への国民の義務」という視点からはまったく議論されてこなかっ
た。これは、司法審がイカサマである証拠である。義務と権利と
は一対となっている。勤労の義務は勤労の権利と、教育の義務
は教育の権利と、納税の義務は主権行使の権利と一対のもの
として成立している。
司法については、憲法は「裁判を受ける権利」を定めているが
「裁判をする権利」は定めていない。わが国の司法の根幹は、
専門職としての裁判官が裁判を行い、国民はその決定(判決)
に従う、ということが不文律として前提されている。戦前の陪審
制は、この原理を一部修正して国民も裁判に参加する制度とし
て導入された。
この陪審制は、憲法制定、国会開設という民権拡張のひとつ
のテーマとして掲げられた「自由民権運動」の一部なのである。
歴史的な必然性をもった課題だったといえる。そして、この陪
審制を休止に追い込んだのは、戦争であり、戦争遂行のため
にでっちあげられた大政翼賛体制であり、具体的には大政翼
賛派の司法官たちだった。
この司法官たちは、産後は追放を免れ、陪審制復活を阻止
するために働いた。陪審制は復活することなく、戦後の60年
が経過した。
裁判員制度導入派は、これが「国民の義務」であることはお
くびにもださないで来た。そして、最終段階でにっちもさっちも
いかなくなって「義務論」にすがろうとしている。
よろしい。そんなに裁判員制度をやりたいなら、憲法七六条
を改正して、国民に裁判権を与える規定を定めなさい、と優し
くいってやろうではないか。
●政府にも最高裁にも 裁判員制度を
立ち上げる力も才覚もない
福田内閣の支持率は24%にまでに落ちたそうである。30%
を切ると危険水域に入ったといわれるのであるから、福田丸は
いつ沈没しても座礁してもおかしくない。そんな内閣にまったく新
しく国民に大きな義務を課す裁判員制度を施行する力は残って
いない。もともと、2006年11月に、内閣に設置された司法制度
改革推進本部が解散すると、内閣はさっさと撤退し、推進する
母体は、最高裁・法務省・検察庁・日弁連などに移った。いず
れも司令塔にはなり得ず、寄り合い世帯である。
裁判員制度は戦後の国の制度のなかで、国民を「義務的に
参加させる」初めての制度といえる。参加させる意味が直接的
であり、金銭の負担とか、時間の負担などではなく、生身の国
民を参加させないと成立しない制度である。最高裁の最新の
調査では33%が裁判員の就任を拒否している。裁判員制度
に反対する国民が三分の一、というのではない。参加するの
をノーといっているのである。さらに、40%強は、義務だから
参加せざるを得ない、と回答している。この最大グループは、
きっかけが与えられれば、すぐに、参加しないグループへと変
化するだろう。
裁判員制度は「徴兵制」と同じなのである。徴兵制は、好き
か、嫌いかではなく、支持するか、しないかではなく、参加する
か、しないかではなく、国家が強制力をもって国民に義務とし
て有無をいわせず果たさせる制度なのである。
強制的に果たさせる義務だから、その適用においては、公
明正大でなければならない。日本の政治や司法は、国民に
徴兵制に準ずるような義務を強制できるような、公明正大な
ものだろうか?
●“支持率政治”が支持率を失うと
これほどみにくい事態になるのか
どんなすぐれた政治家でも、何も打つ手は無い、それが現
状である。安倍錯乱内閣のとき、衆参同日選挙を行った方
がまだましだったろう。しかし、小人は何とかなる、というhか
ない願望にすがって醜態を晒し続ける。
安倍内閣は第四次小泉内閣、福田内閣は第五次小泉内
閣と呼ばれるべき政府である。ペテン師・小泉純一郎は自分
が得意然と振舞えたときは、すべての成果は小泉純一郎の
ものであり、負債はすべて下方に移譲させてきた。
これが、小泉政治の「無責任体制」を作りあげた。無責任
の典型は官僚たちのモラルの低下として現れた。社会保険
庁、国土交通省、防衛省の腐敗振りは救いがたい。
多くのひとは、福田康夫がこれほどバカだったとは思ってい
なかったのではないだろうか。
「昼行灯」という言葉がある。福田はまさに昼行灯というべ
きだろう。昼行灯といえば代表格は忠臣蔵の大石内蔵助で
ある。同じ昼行灯といっても大石と福田ではその意味すると
ころはまったく異なる。大石の場合は、敵も味方もふくめて
吉良に復讐するつもりなどまったくない、と錯覚させるため
の“偽装”昼行灯だった。
福田はどうか。敵も味方も欺くために昼行灯を装っている
などとはまったくいえない。掛値なしの、バカそのもなのであ
る。小泉政治を、かつてバカな政治学者は2001年体制の成
立と呼んだが、その実体は何もない、あるのはただ“支持
率”というバーチャルだけである。
●「裁判員になりたくない」が 33.3%……
この数字は何を意味するか
最高裁の予算消化のためのリサーチであることはミエミエ。
データもメーキングであることも明らかである。とはいえ、そ
の数字には、最高裁の意図がこめられていることも明らかで
ある。
裁判員になりたくないと考えている国民が33%いる。なって
もいいの20%を遥かに超える。そして、義務だから仕方ない
から裁判員になる、というのが40%を超えている。
各自治体は、今年九月までに、裁判員を選出する名簿を
作成して提出しなければならない。それよりも、内閣は施行
の期日を政令で定めなければならない。さらに、その前に、
内閣と最高裁は裁判員制度を施行する条件が備わったか
どうかを公表しなければならない。
今日まで、これらの作業はまったく手付かずである。もと
もと司法制度改革には司令塔が不在である。非公式の陰
の司令塔として矢口洪一が存在していた。矢口洪一はそ
れなりに自分の戦略を持っていた。しかし、矢口洪一が死
去してからは、裏も表も司令塔は存在しない。
何の見通しもない官僚組織(最高裁判所、法務省、検察
庁、日弁連)が思いつきのバラバラな作業を消化している
だけである。実施一年前なのだから、本来なら、鳩山邦夫
法務大臣や島田仁郎長官が先頭に立って仕切らなけれ
ばならないのだが、山口繁事件があるため、コソコソと隠
れるしかない。哀れな蛆虫である。
マスコミもバラ蒔かれた予算を義務的に消化して、4月以
降は知らん振りとなるであろう。
こういう状況で、最高裁が「裁判員になりたくない」を33%
としたのは、裁判員制度断念のアリバイ作りの数字、と読
み解いていいのではないか。
●陪審制復活派は何故敗北してしまったのか?
裁判員制度が議論されたとき、あたかも「陪審制」と「参審制」
の両派がいて、両派の間で激論が闘わせたということが、伝え
られている。(ダニエル・フット『名もない顔もない司法』、西野喜
一『裁判員制度の正体』など)
わたくしは、これはデマであって、最高裁が裁判員制度を矢口
洪一の謀略であることを隠蔽する作り話だと考えている。(論証
できるがここでは省略する) 存在していたのは“陪審制復活派”
だけであって“参審制派”などどこにもいなかったのである。
最高裁がでっち上げた作り話に従えば、陪審制派と参審制派
の対立を楊棄するために“裁判員”が考えだされたということに
なる。裁判員制度は妥協の産物というわけである。
しかし裁判員制度が、参審制そのものであることは日々明ら
かになってきている。妥協の産物などではなくて、陪審制派が
“騙された”あるいは“敗北した”結果である、というべきだろう。
初めのうちは“陪審制派”として旗幟を鮮明にして、裁判員制
度が法定化されたら、すぐに“裁判員派”に豹変したのが矢口洪
一である。陪審制派のひとたちは、元最高裁長官の矢口洪一が
陪審制を推奨しているので、復活の可能性が高いと、大いに期
待したに違いないのではないか。
さらに、裁判員制度が参審制と判明しても“異議アリ”と声を上
げなかったのは、「裁判員制度を改良して、陪審制に近づけてい
けるのではないか」という幻想に囚われたのではないだろうか。
政治の世界は質量の世界、情動の世界で、改良はあり得るが、
司法は最終的には論理の支配が貫徹する世界なので、論理に
改良が無いように、司法には改良は無いのである。
一次方程式を与えられて、この定数と変数に数値を代入して
いけば、いつかは多元多次方程式を解くことができる、と考える
のと同じような妄想である。
陪審制復活派は、「陪審法は眠っているが、立派に生きてい
る…」ということを前面に掲げて、悪党集団・裁判員導入派と対
決すべきだったのである。まさに、千載一遇の好機を逸したと
いうべきだろう。
●「サイコーですか? 最高裁!」
というなんとも不思議な本……
でも、この本は最高裁が裁判員制度を諦めた
ことを、はっきりと立証している
不思議な本ではあるが、よく見ると納得できる本である。どう
納得できるか。この本には裁判員制度について一言も触れて
いない、という珍にして妙な内容なのである。刊行されたのが
2007年12月25日だから昨年の暮れであり、それで裁判員制度
についてまったく触れていないのは奇妙としかいいようがない。
著者は1975年生まれで、九州大学法学部を卒業し、七年連
続して司法試験を受けて失敗し、東京に出てフリーライターに
転じた人物である。
内容は最高裁から提供されたガセネタを糊とハサミでつなぎ
あわせたシロモノ。
最高裁からは裁判員制度に言及するのは禁じられたらしい。
ネタはすべて使い古しで、手垢に汚れたものばかり。著者の
オリジナルは探しても見当たらない。
こんな駄本をこの時期にどうして出したのだろうか。興味は
ただこの一点に集約される。
本気で裁判員制度を施行するのなら、この時期は猫の手も
借りたいはず。ところが、裁判員制度など“どこ吹く風”という
風情。いやあ、さすが最高裁は立派なものです。
察するところ、司法スキャンダルが公然化する前に、最高
裁判事たちの“人間としての横顔”を紹介しておきたい、とい
う未練タラタラの意図に基づく出版企画としか考えられない。
これで、最高裁が裁判員制度の施行を投げ出したことは
明らかになった。裁判員制度は死産だったのである。
それにしても、こういう恥知らずの本を出すような人物が、
司法試験に合格しないで本当にヨカッタ、ヨカッタ……。
